おひさしぶりです。
「半歩」からの対話を目標に、「ハーフ」に限らず海外ルーツと身の回りの人々を繋ぐメディア、HAFU TALK(ハーフトーク)メンバーのケイン樹里安です。
ルーツやルート(道のり)について、あぁでもない、こぉでもないと考える毎日なのですが、気になる言葉を見かけ、今度はそれについてあれやこれやと考えております。
それは「当事者マウンティング」という言葉です。
「あなたもきっと経験がある『当事者マウンティング』の暴力性と誘惑
――『わかっている』感覚ほど危ない?」と題された文章で初めて見ました。
磯野真穂さんという文化人類学者の方が日刊ゲンダイに書かれた記事です。
「当事者の言葉は重要である。経験していなければ、その場にいなければ知りえないことはたくさんある。世界は当事者の言葉が聞かれなかったゆえに起こった悲しい出来事であふれている。
しかし当事者が当事者であることを根拠に「わかる」を主張し、当事者でないことを理由に「わからない」を突き付けるとき、それはマウンティングになる。
ここではそれを「当事者マウンティング」と呼ぼう。」
記事はコチラです↓↓
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/57238
いくつかの具体的なケースから、磯野さんは「当事者マウンティング」とは何かについて、丁寧に説明されています。
ただ、僕としては、やや心配なところがあります。
それは磯野さんの言葉が、磯野さんの予期せぬかたちで、誰かに奪われてしまうのではないか、その結果として、「しんどい」と声をあげた人々のあらゆる行為が「当事者マウンティング」というレッテルを張られることで、その口を塞がれてしまうのではないだろうか、というリスクについてです。
どういうことでしょうか。
磯野さんの記事を読んだ2018年8月29日、僕は以下のように感想をツイートしていました。
「うーん…当事者の声が聞き届けられることの少ない状況で『当事者マウンティング』という言葉をポンっと使ってしまうと、ますます当事者の声が抑圧される状況にならないでしょうか。心配。」
「マジョリティに簡単に奪われてしまう、大変あぶなっかしい言葉であるように思いました。『マジョリティのマウンティング』を正当化・強化させてしまう副作用のある言葉。使い方は要注意」
「さらに言えば、『当事者マウンティングの最大の問題は、対話の扉を閉ざし、知るチャンスを封じることにある』と書かれていますが、
『当事者マウンティングという言葉を手に入れたマジョリティ』によるマウンティングも、対話の扉を閉ざし知るチャンスを封じてしまうのでは」
「(続き)切れ味鋭い言葉はそのぶん副作用も強いので、せめて、さらなるマイノリティへの抑圧を防ぐような言葉を十分に添えてから発信する必要があるのでは、と自戒を込めつつ、改めて、強く、思いました。」
「『マウンティング』という『身ぶり』だけで、『当事者』のふるまいの何もかもを語ることはできないでしょうから、やはり何重にも慎重でありたいなと思います。」
断片的なツイートをまとめますと、要するに、
「『当事者マウンティング』という言葉があまりにも広まってしまうと、マイノリティがやっと言葉にすることができた声でさえも「当事者マウンティング」だとレッテルをはられ、『聞く価値のないマウンティングである』という烙印を押されてしまえば、結果として、「しんどい」と感じているマイノリティの沈黙を強いるのではないか」という不安です。
磯野さんご本人がタイトル・サブタイトルをつけられたのか、僕にはわかりませんが、「暴力性」という表現は、「当事者マウンティング」という言葉を手に入れ、マイノリティに「ちょっと、それ、当事者マウンティングだからww黙っててwwマウンティングやめてww」のような使い方をするマジョリティ(ないしは「強さ」を誇示するほかのマイノリティに)にされてしまったときにこそ、見事に当てはまるように思います。
そして、このような言葉の使われ方は、磯野さんの予期しない使われ方なのではないか、と思うのです。
しかし、このような「暴力性」を帯びた使われ方を許してしまうくらい、「当事者マウンティング」という言葉には「誘惑」があります。
なにしろ、大変、「使い勝手のよい」言葉であるからです。
たしかに、「当事者であること」を「武器」であるかのように、「マウンティング」をとってくる人々が残念ながらいないわけではありません。
そして、そのような「マウンティング」という「身ぶり」によって言葉を発することができなくなる人々も、いるでしょう。
そのようなときに、「当事者マウンティング」という言葉は清涼剤のように感じるかもしれません。「そうか、自分は、『当事者マウンティング』をされたのか。今度されたら、そのように相手に言い返そう!」と思うことで、踏ん張れる人もいると思います。
そのように考えると、ポイントは、「誰が」というところにありそうです。
誰が「当事者マウンティング」という言葉を使うのか。
どのようなときに?誰に対して?
「当事者マウンティング」という言葉に躊躇を覚えない、いわば「用法・容量」を考えようとしない誰かが、安易に、「しんどい」と思っている人々に対して、使ってしまったら?
その「誘惑」に駆られたら?
そう思うと、大変、大きな不安を覚えるのです。
実際、そこにある現象をスッと切り取れる、鋭い言葉。
だからこそ、その切れ味に魅了され、言葉を生み出した本人の意図を越越えて、「躊躇をせずに使ってしまう人々」が現れてしまうのかもしれません。
そのような人々が現れたときに、「その言葉、マイノリティの声を塞ぐ目的だけで使ってない?誰かを傷つけてない?大丈夫?」と、僕たちは、きちんとツッコミを入れることができるのか。
そこが、問われていると思います。
僕の場合は、ハーフや海外ルーツについてですが、「書き物」をする1人だからこそ、「切れ味」「暴力性」「誘惑」「用法・容量」に躊躇を覚えながら、慎重でを期しつつ、使いたいなと思う今日この頃です。
ケイン樹里安
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