みなさん、いかがお過ごしでしょうか。
じゅりあんです。
さて、今回は新展開!
「半歩からの対話」を掲げるHAFU TALKは「ハーフや海外ルーツとその身の回りの人々を結ぶメディア」と名乗ってきました。
そこで(?)、今回はHAFU TALKの「TALK」の部分、つまり「対話」にフォーカスしてみたいと思います。
対話という言葉から連想するのは、やはり面と向かって会話をする場面、あるいは、HAFU TALK(ハーフトーク)のようなデジタルなメディア(媒体)を介したものかと思います。
ですが、今回は言葉でもデジタルメディアでもなく、身体表現で「対話」を試みる方法に注目してみたいと思います。
実は、ご縁がありまして、さまざまなルーツをもった人々と作品づくりを試みられている、北村明子さん(振付家、ダンサー、信州大学人文学部准教授)と対談をする機会をいただきました。
北村さんは2015年から、アジアのアーティストたちが共に創り上げる国際共同制作プロジェクト「Cross Transit」を行なっておりまして、アジアの地域に根ざした伝統舞踊、音楽、精霊儀礼、武術をリサーチした上で、出会ったアーティストや文化からインスピレーションを受けて、歴史的な流れや場所を横断する作品を発表されてきました。
具体的には、コンテンポラリーダンスという表現と、身体という媒体(メディア)を駆使することで、国境を辿り、なぞり、言語化以前の情動をも駆使して「対話」を生み出し、観客と共有しながら「未来のアジア」を描き出そうとする実践に取り組まれてきました。
たとえば、2016〜17年にかけた上演された第1作に続く、第2作では、日本、インド(マニプール地方)、カンボジア、インドネシアのアーティストが集った「土の脈」が2018年10月に公演が行われ(http://www.akikokitamura.com/crosstransit/process/201810.html)、今年の10月には、最新作「梁塵の歌(りょうじんのうた)」が東京で公演されます。(https://setagaya-pt.jp/performances/ryoujinnouta201910.html)
「半歩からの対話」を掲げ、WEBメディアやマスメディア、対面的なイベント、ZINEで対話を模索していたとはいえ、いったん、対話それ自体を問いかける機会を探していたところに、偶然ご縁がつながったカタチです。
HAFU TALKと「ハーフ」研究とともに、よさこい踊りの研究でも「身体」に注目してきた僕にとって、北村さんとの対談は大変刺激的でした。
対談は、「土の脈」の稽古の様子を見せていただいたのちに開始されました。
いかんせんアーティストの方との対談は初めてで、僕はその場でポンっと触発されて出てくる質問を「えいやっ」と投げ出すばかりでした(すみません…)。
それでも、言葉をひねりだしてくださる北村さん。ありがとうございました(笑)
対談の最初の方は、稽古中の作品制作の話が中心なのですが、その話題を通して、いつのまにやら、そもそも「対話をする」とは、どういうことのなのか、という話題へと少しずつ、トピックがうつっていきました。その中身は、おそらく、このHAFU TALK(ハーフトーク)というメディアが掲げる「トーク」について考えるときの、1つのヒントになると思い、今回、こうしてコラムのカタチで掲載することになりました。
さてさて、前置きが長くなりました!
とりあえず、対談へとお進みくださいっ!!それではどうぞっ!!
***
(稽古の見学後、挨拶もそこそこに……)
じゅりあん:お疲れ様でした。がっつりと1時間半ほどでしょうか、見させて頂いて…ちょっと思うままに質問させてください。まず、いきなりピンポイントで恐縮ですが、稽古を見ていて、「踏む」という動作への「こだわり」を強く感じました。この動作にどのような意味合いがあるのか、ぜひお聞きしたいです。
といいますのも、実は、僕よさこいをやっておりまして…。それで、チームの練習場のひとつがインド舞踊のスタジオなのです。スタジオを経営されている方が、インド料理のレストランもやっているのですが、その方はダンサーでもありまして。で、地元のイベントや祭りで、その方と演舞の出番が前後することがよくあるのです。
彼女の身体動作で特徴的なのが、やはり「踏む」ところなんですね。
舞台が振動するほど力強く、ズドンと垂直に振り下ろすように、しかし無駄がなく、スッと、文字通り「落とす」ような動作をずっと見てきました。
太鼓の音に邪を払う意味があると、色々聞いたことがあるのですが、彼女の「踏む」という動作も、まわりの空気を清めるような、そのようなニュアンスがあるのかな、とずっと思ってきました。
いま拝見した稽古でも、体をサイドに大きく揺らすことよりも、スッと足を「踏む」ように、北村さんからダンサーの方へ、指示を出されていましたね。では、この「踏む」という動作に、どんな意味が込められているのでしょうか?
北村:
私がアジアのフィールドリサーチに入って、「土を踏む」ことを強く体験したのがきっかけです。裸足で武術の稽古をしたり、踊ったり。自然の中で「地」をしっかり踏みしめるとか、重心を低く落として、「つながり」を「地」からもらう、エネルギーをもらうといった動作をたくさん経験しました。
そもそも日本でも、神楽だったり、地鎮のような意味を込めて「踏む」という動作が踊りにもありますよね。「地」への感謝、頭を地面につけて示す感謝の行為や、畏怖の念を抱くということ。そうした体験がインスピレーションの元になりました。
祖先たちが眠る地に深く届くような、ズンッと垂直に「踏む」動作は意識的に入れています。消えゆくものを捉えようとする「動き」につながらないかなと思って振付けをしていますね。
じゅりあん:
なるほど。やはり、かなり意識的に振付をつくられた……いや、むしろ、アジアを実際にめぐられるなかで「取り込まれた動き」である、「踏む」という動作を作品に落とし込んでいる、という感じなのですね。興味深いです。
「取り込まれる」、というところに関わると思うのですが、いったんテーマについてお聞きしてもいいですか?たとえば、いま取り組まれている作品制作は「アジアの未来」をテーマにされているのですよね。
現在でも、過去でもなく、また近未来でもなく、未来。
そこにどのようなニュアンスがあるのでしょうか。
と、いいますのも、稽古を見学していて印象的だったことがありまして。
楽器の演奏者を含めて、すべてのパフォーマーの移動するタイミングや、移動する軌道を入念にチェックされているのかな、という印象をもちました。この軌道に、アジアの海路・陸路、あるいは言語や文化の連なりや交差が現れているのかなぁ、などと感じながら見ていました。
特に興味深かったのは、複数人のダンサーで同じ振りを踊っていながらも、首の向きや手の出し方のタイミングが少しずつズレていって、最終的にソロの動きに入っていく場面です。こうした動きのズレや違いを多用した振付が、「アジア」としての共通性と、そこからの独自性や特異性のようなものを表しているように感じました。
北村:
アジアとはどこを指すのかという地政学的な問題は、ここで語るには大きすぎるのでさておいて、私が旅したアジアの国々では「混ざる」のがおもしろいことになっていくだろうなという実感があります。
これは私個人の感覚かもしれませんが、ダンサーとしてはどうしても洋舞、つまりバレエ、ジャズダンス、コンテンポラリーダンスと、ヨーロッパから学んだものが多かったのです。年齢を経て、アジアの伝統的な踊りや所作、身体技法の魅力に感銘を受けるようになりました。それらが踊りの中で混ざり合い、「未来のアジア像」の、あるひとつの姿に到達できたらと願っています。
それから軌道、通り道について。言語や文化の「交差」というものは狙っています。ボキャブラリーをつくることによって混ざりゆく、あるいはまったく異なる個性が併存していて、それが交差していくということですね。
アジアとしての共通性や、そこから出てくる差異も表現できればと思っています。差異が引き立った状態で混在していくおもしろさ、それぞれのものが混ざりあう中で、ひとつのトーンを生み出していくおもしろさを感じています。
じゅりあん:
アジア――もちろん、どこがアジアなのか、ということを考えねばなりませんが――のなかにおける共通性と差異の交差を明確に狙っている、そして、ヨーロッパ的な身体表現から、ある意味、距離を置くことと、それらが結びついておられるのですね。そこが「おもしろい」、と。なるほど。そうしたテーマは、具体的に、いつ生まれたのでしょう?
さらにお尋ねしたいことは、「アジアの未来」というテーマのもとに、インド(のマニプール地方)、カンボジア、インドネシア、日本のメンバーが集ったわけですが、広大なアジアの中から北村さんが実際には「選ばれた」ことになりますよね。その選択性、ないしは必然性や偶然性について伺いたいです。
おそらくそれは、今までのCross Transit全体の作品づくりともリンクすると思うのです。それこそ、「トランジット」、「交差」、「祈り」といった、プロジェクトの鍵となるイメージとも関わるのでは、と勝手ながら思うのですが、いかがですか?
北村:
「Cross Transit」を始める前に、複数年に渡るプロジェクトとして私が最初に取り組んだのが、インドネシアとの共同制作「To Belong」でした。
その最中に、インドネシアやシンガポールのアーティストから「いまカンボジアの若い世代がすごくパワフルで、ダンスも含めて新しいものにエネルギーを向けてるんだよ」というお話を聞きました。アジアで起きていることをいろんな方々から聞いて、そこから「武術も調べてみよう」とか「音楽はどうなっているのかな」と興味が湧いて調べていくうちに、テーマが浮かんでくることが多いです。
射程を決めてから「これだ!」と向かっていくというよりは、ひとつひとつの交流を通して、自分が知らなかった様相が見えてくる。当然、インドとインドネシアの距離感と、インドネシアと日本の距離感も違うわけですよね。そういう異なった視点を、さまざまな立場や地域の方から聞いていくことで、今まで自分が持ち得なかった視点が出てきます。
いわば、「偶然性が先にあって、その中から必然性を生み出していく」という作業過程であるように思います。
それから「トランジット」、「交差」、「祈り」といったキーワードについて。創作の際は、自分の興味が導くところに対していろんな方の視点を織り交ぜていくわけですが、そこに「体の行為」がどのように脈々と続いているのか調べていくと、いろいろな要素が繋がってくる感じです。
「祈りにつながる体の行為」というものが、昔から現代に向けてどう変化してきたか、昔のものがどんな風に残っているのか。シャーマンの歌や消えゆくものに興味があり、創作のモチーフにしています。
じゅりあん:
Belong、つまり「帰属」ですよね。そこにいること。そこのメンバーであること。そこに巻き込まれていること、生活すること。おもしろいテーマですね。「ハーフ」研究でもそのあたりのことを常々僕も考えている気がします。
話を少し戻すと、「選ばれた」というよりも、「そうなってきた」ものを、あとで、とらえかえす作業のなかで、必然性や共通性を見つけだすのかで「未来のアジア」や「祈り」のようなテーマが、その土地の――この「土地の…」という言い方がまさにBelongとつながりますね――人や身体表現や音楽とのかかわりのなかで浮上した、というところでしょうか。
一方で、少し気になっていることもあります。必ずしも批判的な意味ではないのですが、「アジア」というテーマで実際に演出を行う際に、実際には、稽古中にも「日本語」と「英語」が使用されるという点について、何かお考えのところはありますか?
北村:
これは、ていねいに考えないといけない問題ですよね。「Cross Transit」に関わる人たちの言語は日本語、インドネシア語、クメール語、メイテイ語と多岐に渡り、英語にする際に取りこぼされていくニュアンスがあったり、創作上のやり取りがテクニカルなものに留まりがちだったりという状況はあります。
言語と思考は深く関係するので、本当は英語に頼らず、それぞれの言語のまま、細やかなコミュニケーションが取れたらすばらしいのですが、実際はなかなか難しい。
でも、そこを越えていくものが身体のボキャブラリーや歌であったり、踊りであったりするのかなとも思うのです。身体同士で、踊り・歌・音楽・リズムでコミュニケーションを取ること。それがまさに作品のテーマにも繋がっていきます。
じゅりあん:
なるほど、それこそ「アジア」をテーマとしながらも、テクニカルな理由で、どうしても「公用語」としての英語を、道具として使わないといけない部分がある、と。そのなかで「細やかなモノ」が抜け落ちてしまう。それはもう、そうでしかない、とある意味わかった上で、というか、むしろ「そんなものだよね」と織り込み済みに、いったんしておいて、それでも、その「細やかなモノ」を、身体で、踊りで、歌で、音楽で、リズムで、なんとかコミュニケーションを取りながら、探り当てようとされているわけですね。
考えてみますと、同じ言葉を使ってコミュニケーションをとっていたとしても、そもそも「細やかなモノ」がちゃんと伝わっているかどうか、実はあやしかったりしますとね。この「探り当てようとする」ことが、けっこう大事なポイントかもしれませんね。
あぁ、そういえば、今回、稽古を見ていて、身体というものが、本当にどうしようもなく「肉」であると同時に、社会的に構築されるものなのだなぁと感じました。そのことが、まざまざと浮かび上がる場こそが、踊りという場なのだ、なのですよね。
過去の映像も拝見したのですが、声と言葉の交差や「対話」が、実際に体を通してひねりだされ、ぶつかりあい支えあい、すれちがう中で紡がれる光景を見せていただきました。たとえば、相手の振り上げた足をサッと手で掴む、あるいはお互いに言葉を発しながら向かいあう、といった振付でそれを感じました。
僕らが運営しているサイト「HAFU TALK」には、「TALK」という言葉が入っています。
誰かと「TALK」をする「おもしろさ」には、常に「ままならなさ」がつきまとい、だからこそ想いが通じた時に喜びを感じると思うのですが、こういった点も作品や振付のイメージに関わっているのでしょうか?
北村:
身体がどうしようもなく「肉」であり、物質的なものだということはダンスにとって大前提ですね。首は360度回りませんし、骨や肉の構造という物理的な制限には抗えない。
そして、社会的に構築されるものについてもおっしゃる通りです。
たとえば、ミャンマーでダンスセッションをしたときに現地の女性が参加してくださることになり、動きやすい服装で来るように伝えました。トレパンのような服装で来てくれるだろうと思いきや、「ミャンマーではこれが踊りの衣装だから」と、タイトな民族衣装で登場したのです。「大丈夫」と言っていましたが、やっぱり足を上げたりできなくて…。途中でやめてしまいました。
「社会的に構築されたものを着て、踊りの練習をする」という、その土地の常識を飛び越えてやっていくのは時間がかかること、あるいは、こちらの認識を変える必要があることなんだな、と学びましたね。
言語化できない情動、精神の状態と、体のボキャブラリーというものが密接に結びついていると私は思っています。ひとつだけを取り出すことはできなくて、体は統合された物体であるということ。すごく複雑な問題で、だからこそダンスがおもしろくなる部分でもあるのですが。
言葉を使ったり、声を使ったり、物理的にぶつかりあったり。人間の体の対話を、いろんなレベルで試みています。それは、何かひとつのレイヤー(層)を取り出していくことではなくて、統合的にそれを見ていく。
統合されている中に、個人のセンスや経験、思想、身体といったものがさまざまに交錯しています。物理的な身体、社会的な身体、自分の社会での役割、家族での役割、個としての考え。それらが混ざり合って、体からリアクションが出てきます。
誰かと対話すること、「TALK」することのおもしろさには「ままならなさ」がつきまとう。その通りだと思います。
個々の違いに「まぁそうだよね」って同意することもあれば、予測できないことの連続もありますよね。「そんなリアクションするんだ」、「そんな動きをするんだ」、「そんな歌を歌うんだ」と。
それを、各々の考えに基づいて編集していくのが演出家としての私の役割だと思っています。想いが通じたときの喜びもあるんですけれども、想定外のことができるようになるおもしろさも大事にしたいですね。
じゅりあん:
あぁ、とってもおもしろい話ですね、それは。自分の「ダンスに適した服装」と、出会った人の「ダンスに適した服装」が全然ちがって、必ずしも制約とは限らないでしょうが――何しろ「適しているもの」がちがうのですから――身体表現の可能性や幅や傾向や、たぶん美しさや大事にしていることも「ピッタリいっしょ」ではないのでしょうね。それこそ、からだの動きや表現の語彙(ボキャブラリー)が変わってくると。ダンスと、それを踊る肉体と、それにかかわるさまざまな要素の重なり合いや、すれちがい、それ自体は「探り当てる」なかで、はじめて、一緒に踊ったり、一何かを表現したり、それこそ「対話」することが「できる」ようになるわけですね。おたがいに「細やかなモノ」を受け取りあっているかを、厳密に、というよりも、実は、ある程度、テキトーに、でも「適当」に探り当て続けることが「対話」なのかもしれませんね。
せっかくなので、最後にアーティストへのインタビューっぽいことさせてください(笑)
それでは、最後の質問です。「Cross Transit」プロジェクトの見どころを教えてください。
北村:
まずは「体験する場」であること。「コンテンポラリーダンスは難しい」と思われがちです。確かにいろいろな思想が継ぎ込まれていますが、それを体の言語、音楽の言語などを通して魅せていきますので、臨場感あふれる体と音楽のライヴ感をぜひ楽しんでください。
もうひとつは、いろいろなアジアの国の方々と協働しているので、それぞれのアーティストとしての個性が何に基づいているかに注目してほしいですね。
「文化的なものを、個人の体がどうやって越えているのか」、逆に「文化的なものが、どう個人の体に根づいているのか」に興味を持って見ていただけると、その違いや発展が楽しめると思います。
=======================================
アジア国際共同制作プロジェクト Cross Transit 最新作
「梁塵の歌 (りょうじんのうた)」
2019年10月25日(金)~27日(日)
シアタートラム (東京都世田谷区)
詳細はこちら
聞き手:ケイン樹里安
Comments